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思想としての全共闘世代 (ちくま新書)
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| 商品カテゴリ: | 受験,教育,学習,英会話,資格取得
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高等遊民の独白
ある団塊左翼の半生を綴った回想記である。
全体的に読み易いが、文章にところどころ左翼特有の晦渋な表現があるのと、
還暦にもなるのに一人称を「ぼく」としている点に幼稚性を感じる。
それはともかくとして、本書を読むと1960年代後半の学生運動高揚期の様子がよくわかる。
著者は1966年東大に入学し、学生運動の洗礼を浴び統社同の学生組織に入る。
いざとなったら逃げ腰になる丸山真男より、思想的に180度違っていても正面から対話する
三島由紀夫や林健太郎を尊敬する、というくだりは当時、東映の任侠映画が全共闘の学生に
人気があったのと、一脈通じている。
著者は運動に入れあげた挙句、東大を中退し、今で言うフリーターのような人生を送ることになる。
最初は肉体労働、次いで塾・予備校の講師、かたわら文筆活動を始める。
こういう例は多かったのだろう、まともに就職できなければこういう道を辿らざるを得ない。
著者のような層が70?80年代の社会党・共産党の基礎票だったと想像する。
全共闘は挫折したが、その後の日本の政治に影響を与えたといえる。
あの時代・・・
全共闘の時代は,こうだった。
≪まだ歴史の進歩の観念も少しは残っており,社会主義にたいする信頼も,現実の社会主義はひどくても新しい社会主義が出現するかもしれないという希望のなかで生き残っていた。つまり,漠然と革命がいずれくると思っていたということで,具体的なプロセスが考えられていたわけではない。それだけでは無責任だと思う人間は,党派に入ることで具体性に一歩近づいたかのように自分を思いこませていたのである(とぼくは考えている)。≫(88頁)
1947年生まれ=団塊世代の中核に位置する筆者は,66年に東大に入学し,70年に中退する。この間,演劇をやりながら,ノンセクトで全共闘運動に関わっていたらしい(黒ヘルと書いていたから。91頁)。
やがて,時代は下る。
≪『構造と力』,『逃走論』(筑摩書房)が立て続けにベストセラーになりポストモダンブームがおとずれたのは,フランス現代思想の輸入という側面もあったが,物言いの作風にかんする違いが大きかったのだとぼくは思う。全共闘的な「大仰な」言い回しを,「重い」としりぞけ,軽く・ずらしながら・スキゾ(分裂的)に生きることを浅田は主張した。これが思想的な内容自体よりも,八〇年代の消費社会の現在にぴったりしていたのである。言いかえれば全共闘世代のしつこさや威張った物言いにはあきあきした,この社会での可能性はもっと別な形で探すことができるということが,ポストモダン思想がまず主張していた内実だった。≫(162?163頁)
浅田彰が流行った時代しか同時代的には知らない私であるが,全共闘時代の雰囲気(団塊の世代の人がなぜ「大仰な」「重い」言い回しをするのか)が何となく分かるような気になった一冊だった。
あの時代(とき)を知る
とても個人的なことだが、今年28歳になる。兄は今年30歳になった。私たちの父はこの3月で高校教諭を定年退職する。いわゆる団塊の世代であり、いわゆる全共闘世代である。
本書は、ぜひ私と同世代の人に読んで欲しい。
以下は本書の内容というよりは、余談に近い。
私は父の生き方に共鳴を覚えてきた。
家の書棚には、高校で見聞きした哲学書が一通り並び、本を開けば万年筆で傍線が引いてある。お飾りではなく、それらは確かに父の血肉になったのだろう。日本史を教えながら英語を堪能にしゃべり、現在は定年後に備えて通訳の勉強を始めた。信念もあり、行動力もあると思っている。
「全共闘世代」なるものには、ずっと違和感を覚えてきた。彼らはメディアで取り上げられるよりも、ずっと優秀だったのではないか、と。父、そして彼の友人たちを通して体験する「全共闘世代」は、決して日本を悪くしてきた癌には思えなかった。
「全共闘世代」の子どもたちの中で、私と同じように感じている人も決して少ない数とは言えないだろうと思っている。
本書が私たちの父や母の考え方に対して、何がしかの「答え」を与えられているとは言えない。ただ、「ヒント」は大いに提示してくれていると思う。
そしてこの「ヒント」を示すというやり方こそが、父が私に行ってきたやり方であり、その点において本書から立ち上る「思想」は「全共闘世代」のある部分を的確に表していると感じている。
父と同世代の「あの時代(とき)の郷愁」のためでなく、私と同世代の「あの時代(とき)を知る」のためにこそ、本書は読まれて欲しい。
しみじみしてしまった
今年の夏、還暦で亡くなった著者の、これは遺作にあたる。
率直に言えば、私は小阪修平という人に、それほどの思い入れがあるわけではない。と言うよりむしろ、どこかで軽く見ていたところがある。
思想関係の早分かり本を数冊読んで、込み入った話をスッキリした図式にまとめる才は感じた。でも、その図式に動かされるようなことはなかった。小さな文章にもいくつか目を通したが、語り口は「飄々とした」雰囲気を醸し出しつつ結局は観念臭が強く、力んだ議論は肌に合わなかった。69年5月に東大駒場で行われた三島由紀夫との討論会の記憶を特権化する傾向があるのにも、少々辟易した。
ただ、実は一度だけこの人が話すのをじかに聞いたことがあって、風貌は本書の著者近影そっくりで(当り前か?)、語り口はやっぱり「問題」を「もんだい」と平仮名に開くような奇妙な平易さを漂わせていて、ああ、こういう人なんだと無意味な納得をした。そういう縁とも言えない縁があって、今年の夏に亡くなったと聞いたものだから、この本を手に取った。
で、私は小阪修平の著作を少ししか読んでいないけれど、もしかするとこの本は彼の一番の作品ではないかと思う。自分の体験に即して語られる6章までは、読んでいて心に響いてくるものがあった。ただ、80年代以降を論じだすと、著者は「わからない、わからない」と繰り返し呟き、実際話は身に沁みない、観念で切るような方向に行ってしまっている…と、私は思う。でも、小阪修平という人が、一番素直に表れている本であることは、きっと間違いない。
全共闘経験の「つかまれてしまった」という感覚
「思想としての全共闘世代」というタイトルではあるが、もちろん具体的にそのような思想がある訳ではなく、著者の大学入学から現在に至る個人史と時代をオーバーラップさせながら、“全共闘の意味”についてまさに“個人的な視点から”語っている本である。そして、そのようなアプローチこそが“全共闘的”なのだ、ということも読んでみるとわかる。
読み始めは、なんか自己弁護的だな、見方が手ぬるいなといった感想も持ったのだが、読み進めていくと、“全共闘運動”に対する誤解が僕の側にあったのかもしれないと思った。著者も書いてるように“三派全学連と全共闘”が僕の中ではごっちゃになっている部分があったし、内ゲバや連赤のリンチ、あさま山荘、よど号、三菱重工爆破といった先鋭化し大衆運動からかけ離れてしまってからの“過激派”のイメージがやはり圧倒的なのである。何よりも、全共闘経験の「つかまれてしまった」という感覚は、著者の語りによって、はじめて理解出来たものだ。これまでにこんな、まるで“波に飲まれてしまいました”といったような受動的で一見、無責任にも感じる全共闘語りは聞いたことがなかったのだけど、たぶん、それは率直な実感なのだろうと思うし、その分信じることが出来る。そして、「全共闘の意味とは、ストレートに伝達され言表されたものではなく、いったん水面下にもぐり、ふたたび出てきた影響や生き方にあるのだと思う」という考え方も。
“全共闘”については、団塊世代がノスタルジックに語ったり、知らない世代がオタク的に、トリビアルに語ったりすることには、どうしても違和感、拒絶感を持ってしまうのだけど、本書には、“全共闘という方法論の可能性”を感じることが出来たし、最終章でバタバタッと具体的な方向性が記されていたと思うので、その敷衍を期待したい。
筑摩書房
1968年 (ちくま新書) 安田講堂 1968‐1969 (中公新書) 美と共同体と東大闘争 (角川文庫) 全共闘 らんぷの本 東大落城―安田講堂攻防七十二時間 (文春文庫)
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